プラハのミステリーというドラマを見ていて、最終回に聖マーガレットという名前が出てきました。
誰?と思い、調べてみました。
●アンティオキアのマルガリタ(聖マルガリタ)
ヤコブス・デ・ウォラギネの書いた『黄金伝説』によると、マルガリタはピシディアのアンティオキア(現在のトルコ共和国・アンタルヤ近郊にあった町)生まれで、父はアエデシウスという異教の祭司。キリスト教の信仰を持ったため、父からうとまれ、養母と羊飼いをしながら暮らしていた。地方高官オリブリウスからキリスト教信仰の放棄とひきかえに結婚を申し込まれたが、拒み捕らえられ、拷問を受けることになった。そこで、ドラゴンの姿の悪魔に飲み込まれたとき、彼女が持っていた十字架でドラゴンの体内が傷つき、無事に出てくることができたなど、多くの奇跡が起こった。「苦難を乗り越えて胎内から出てきた」という伝説から、民衆信仰では妊婦・出産の守護聖人として崇敬されている。マルガリタは紀元304年に亡くなったとされている。
ギリシャでは「マリーナ」と呼ばれ、7月17日に祝われる。聖ペラギアと同一視され、ギリシャ語のペラギアがラテン語のマリーナと対応している。伝承によればマルガリトと呼ばれたとも。一部の学者たちに、アフロディテの物語に由来していると考えられている。
聖マルガリタ(マーガレット)への崇敬は特にイングランドで盛んであるり、竜から逃れる姿で描かれる。十四救難聖人の一人であり、ジャンヌ・ダルクに幻で現れたことでも知られる。
●アンティオキアといえば、
アンティオキアのアレクサンドロス:ミロのヴィーナスを制作したとされる古代ギリシアの芸術家、彫刻家。
・アンティオキア攻囲戦:第1回十字軍の主要な攻城戦の一つ。1097年10月から1098年6月まで。シリア地方の重要都市アンティオキアを舞台に戦われた。
・アンティキティラ島の機械:アンティキティラ島近海の沈没船から発見された古代ギリシア時代の遺物で、天体運行を計算するため作られた手回し式の太陽系儀であると推定されている、オーパーツの一つ。
・アンティオキアのイグナティオス:アンティオキアの第2代主教(司教)(35年頃ー107年?)
・ロンギヌスの槍:イエスの血に触れたとされている聖遺物のひとつ。ロンギヌスは、イエスの死を確認するために槍を刺したローマ兵の名前。白内障を患っていたが、槍を刺した際に滴ったイエスの血がその目に落ち、視力を取り戻した。それを契機に洗礼を受け、後に聖者と言われた。アーサー王伝説の聖杯探索のくだりにも聖槍は登場する。第一回十字軍がアンティオキア攻囲戦で苦戦しているとき、トゥールーズ伯レイモン麾下のペトルス・バルトロメオが、聖アンデレのお告げにより聖槍を発見したと主張し、十字軍将兵の士気は高まり、勝利を得た
●エルサレムのペラギア
アンティオキアでマルガリタまたはマリナを名乗っていた踊り子、役者。キリスト教の贖罪者で聖人。遊女ペラギア。エジプトの司教ノンヌス(聖ノンヌス、Nonnus)と出会い回心した後、ペラギウス (Pelagius) と名前を変え男装の修道士となり、エルサレムのオリーブ山において隠遁し贖罪して暮らしたとされる。エジプトのマリアやマグダラのマリアの物語との類似がみられる。ペラギアは"海の女"、マリナは"海"を、マルガリタは"真珠"を意味する。アプロディーテーの神話がキリスト教的に作り替えられたものとされる説もある。
アンティオキアのペラギアは裕福で美しい貴婦人だったが、淫蕩で高慢であった。ペラギアが取り巻きを引き連れて歩いている姿を見かけたヘリオポリスの司教ノンヌスはひどく心を痛め、自らの至らなさを主に謝罪した。ある日、ノンヌスが教会で説教をしていると、群衆の中にペラギアの姿があった。ペラギアはノンヌスの言葉に心を打たれ、回心し洗礼を受けた。ペラギアは洗礼を受けたのち、自らの財産をすべて貧しい人たちに分け与えて町を出た。ペラギアはオリーブ山で修道士として暮らし、禁欲と贖罪の日々を過ごした。ペラギアの評判は広まり、ペラギウスという修道士として知られることとなった。その後、ノンヌスの助祭が巡拝に出かける際、ペラギウスの噂を聞いていたノンヌスは助祭に巡拝の後にペラギウスを訪ねるよう言った。訪ねた助祭は痩せこけたペラギウスがペラギアだとは気が付かなかったが、ペラギアは助祭を覚えていたので、司教にペラギウスのために主に祈ってもらうよう願った。3日後に助祭がペラギウスの元に再び訪れるとペラギアは死んでいた。助祭がノンヌスに知らせると、ノンヌスは葬儀のために聖職者たちをすべて連れてペラギウスの元に向かった。彼らがペラギウスの遺体を運びだすとペラギウスが女だったと気づき、驚くとともに神に感謝をささげ、ペラギアの遺骸を葬った。(黄金伝説)
●ビテュニアのマリーナ(-750年頃)修道士処女伝説。
マリーナの父親が修道院に入ることになった為、父親はマリーナを男装させ一人息子として一緒に修道院に入った。以降、マリーナはマリノスとして修道生活を送るようになった。マリノスが17歳の時、父親は死期を悟り、誰にも女であることを明かさないように命じた。
マリノスは修道院での仕事の為に、ある人物の家に泊まることが多かった。ある日、その家の娘がとある騎士の子供を宿したが、困った娘はマリノスに犯されたからだと嘘を言った。しかし問い詰められたマリノスは罪を認め、慈悲を願った。このために修道院の外に追放されることになった。マリノスは修道院の門の近くに住み、パン屑を拾って暮らすようになった。娘の子が生まれるとその子を引き取り、さらに2年ほど暮らしたのちに修道院に戻され、下働きをして暮らした。
マリノスの死後、修道士たちが遺体を洗おうとしたときに、マリノスが女性であったことが判明した。修道士たちは許しを請い、マリーナの遺体は礼拝堂内に葬られた。嘘をついた娘は悪霊に取りつかれ、罪を白状することとなったが、娘がマリーナの墓前に近づくと悪霊は去った。
●タルススのペラギア
シチリア王のファラリスは、彫刻家のペラリウスにアポロ神への奉納品として、精巧な雄牛をつくらせた。すると、ペラリウスは拷問装置の付いた牛を製作した。タルススのペラギアは、ディオクレティアヌス帝によって焼かれた287人のうちの一人だったと言われる。
●マーガレット・オブ・スコットランド
サクソン人王の血を引き、クソン好みのマルカム3世と共に封建制度を押し進めた。
●立教女学院
立教女学院の英語名は、11世紀のスコットランド王妃に由来。マーガレット王妃は、病人や寡婦など弱者の援助に献身して人々に慕われ、人々から厚く尊敬を受け、聖人の一人となった。聖マーガレットは立教女学院の目指す女性像そのもの。上の十字架が米(シュメール語でディンギル、天神アン)に見えてしまった。●セント・マーガレット教会堂
スコットランド・エディンバラ城内で最も古い建物に、セント・マーガレット教会堂があり、スコットランド王妃聖マーガレットが寄進したと言われてきたが、最近の調査で、マーガレットの四男のデイヴィッド1世(1124年即位)が12世紀に建てたらしい。 スコットランドやアイルランドのケルトの影響を受け、典型的なノルマン風の建物らしい。
どうも「海」な感じ。竜は川や海を制するみたいな意味だろうか…。
マリーナは、スペイン語・ポルトガル語・イタリア語で「海に関するもの」の意味。海人→アムル人?
前にモロッコで、ベルベルのお兄さんが「僕たちは高貴な民、アマジクなんだよ」と言っていましたが、アマジクが海人(あまじん)としか思えなかった…。
虫除けの藍染の服を着る、砂漠の中のトゥアレグ族、青の民。
虫除け効果のある青い町。
飯豊青皇女の青はこの青だろうか…。マリア(マリーナ)の青い衣。
先日、映画のDUNEを見て、ブルーの瞳に砂漠の青の民を思い出しました。
インドネシアの東南スラウェシ州、ブトゥン島には、青い瞳を持つの先住民部族がいるそうです。
# by cookiecount2 | 2024-03-26 12:55 | 歴史考察 | Comments(0)