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聖マーガレットと海の民

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プラハのミステリーというドラマを見ていて、最終回に聖マーガレットという名前が出てきました。
誰?と思い、調べてみました。

アンティオキアのマルガリタ(聖マルガリタ)
ヤコブス・デ・ウォラギネの書いた『黄金伝説』によると、マルガリタはピシディアのアンティオキア(現在のトルコ共和国・アンタルヤ近郊にあった町)生まれで、父はアエデシウスという異教の祭司。キリスト教の信仰を持ったため、父からうとまれ、養母と羊飼いをしながら暮らしていた。地方高官オリブリウスからキリスト教信仰の放棄とひきかえに結婚を申し込まれたが、拒み捕らえられ、拷問を受けることになった。そこで、ドラゴンの姿の悪魔に飲み込まれたとき、彼女が持っていた十字架でドラゴンの体内が傷つき、無事に出てくることができたなど、多くの奇跡が起こった。「苦難を乗り越えて胎内から出てきた」という伝説から、民衆信仰では妊婦・出産の守護聖人として崇敬されている。マルガリタは紀元304年に亡くなったとされている。

ギリシャでは「マリーナ」と呼ばれ、7月17日に祝われる。聖ペラギアと同一視され、ギリシャ語のペラギアがラテン語のマリーナと対応している。伝承によればマルガリトと呼ばれたとも。一部の学者たちに、アフロディテの物語に由来していると考えられている。

聖マルガリタ(マーガレット)への崇敬は特にイングランドで盛んであるり、竜から逃れる姿で描かれる。十四救難聖人の一人であり、ジャンヌ・ダルクに幻で現れたことでも知られる。


アンティオキアといえば、
アンティオキアのアレクサンドロス:ミロのヴィーナスを制作したとされる古代ギリシアの芸術家、彫刻家。
・アンティオキア攻囲戦:第1回十字軍の主要な攻城戦の一つ。1097年10月から1098年6月まで。シリア地方の重要都市アンティオキアを舞台に戦われた。
・アンティキティラ島の機械:アンティキティラ島近海の沈没船から発見された古代ギリシア時代の遺物で、天体運行を計算するため作られた手回し式の太陽系儀であると推定されている、オーパーツの一つ。
・アンティオキアのイグナティオス:アンティオキアの第2代主教(司教)(35年頃ー107年?)
・ロンギヌスの槍:イエスの血に触れたとされている聖遺物のひとつ。ロンギヌスは、イエスの死を確認するために槍を刺したローマ兵の名前。白内障を患っていたが、槍を刺した際に滴ったイエスの血がその目に落ち、視力を取り戻した。それを契機に洗礼を受け、後に聖者と言われた。アーサー王伝説の聖杯探索のくだりにも聖槍は登場する。第一回十字軍がアンティオキア攻囲戦で苦戦しているとき、トゥールーズ伯レイモン麾下のペトルス・バルトロメオが、聖アンデレのお告げにより聖槍を発見したと主張し、十字軍将兵の士気は高まり、勝利を得た


エルサレムのペラギア
アンティオキアでマルガリタまたはマリナを名乗っていた踊り子、役者。キリスト教の贖罪者で聖人。遊女ペラギア。エジプトの司教ノンヌス(聖ノンヌス、Nonnus)と出会い回心した後、ペラギウス (Pelagius) と名前を変え男装の修道士となり、エルサレムのオリーブ山において隠遁し贖罪して暮らしたとされる。エジプトのマリアやマグダラのマリアの物語との類似がみられる。ペラギアは"海の女"、マリナは"海"を、マルガリタは"真珠"を意味する。アプロディーテーの神話がキリスト教的に作り替えられたものとされる説もある。

アンティオキアのペラギアは裕福で美しい貴婦人だったが、淫蕩で高慢であった。ペラギアが取り巻きを引き連れて歩いている姿を見かけたヘリオポリスの司教ノンヌスはひどく心を痛め、自らの至らなさを主に謝罪した。ある日、ノンヌスが教会で説教をしていると、群衆の中にペラギアの姿があった。ペラギアはノンヌスの言葉に心を打たれ、回心し洗礼を受けた。ペラギアは洗礼を受けたのち、自らの財産をすべて貧しい人たちに分け与えて町を出た。ペラギアはオリーブ山で修道士として暮らし、禁欲と贖罪の日々を過ごした。ペラギアの評判は広まり、ペラギウスという修道士として知られることとなった。その後、ノンヌスの助祭が巡拝に出かける際、ペラギウスの噂を聞いていたノンヌスは助祭に巡拝の後にペラギウスを訪ねるよう言った。訪ねた助祭は痩せこけたペラギウスがペラギアだとは気が付かなかったが、ペラギアは助祭を覚えていたので、司教にペラギウスのために主に祈ってもらうよう願った。3日後に助祭がペラギウスの元に再び訪れるとペラギアは死んでいた。助祭がノンヌスに知らせると、ノンヌスは葬儀のために聖職者たちをすべて連れてペラギウスの元に向かった。彼らがペラギウスの遺体を運びだすとペラギウスが女だったと気づき、驚くとともに神に感謝をささげ、ペラギアの遺骸を葬った。(黄金伝説)


ビテュニアのマリーナ(-750年頃)修道士処女伝説。
マリーナの父親が修道院に入ることになった為、父親はマリーナを男装させ一人息子として一緒に修道院に入った。以降、マリーナはマリノスとして修道生活を送るようになった。マリノスが17歳の時、父親は死期を悟り、誰にも女であることを明かさないように命じた。

マリノスは修道院での仕事の為に、ある人物の家に泊まることが多かった。ある日、その家の娘がとある騎士の子供を宿したが、困った娘はマリノスに犯されたからだと嘘を言った。しかし問い詰められたマリノスは罪を認め、慈悲を願った。このために修道院の外に追放されることになった。マリノスは修道院の門の近くに住み、パン屑を拾って暮らすようになった。娘の子が生まれるとその子を引き取り、さらに2年ほど暮らしたのちに修道院に戻され、下働きをして暮らした。

マリノスの死後、修道士たちが遺体を洗おうとしたときに、マリノスが女性であったことが判明した。修道士たちは許しを請い、マリーナの遺体は礼拝堂内に葬られた。嘘をついた娘は悪霊に取りつかれ、罪を白状することとなったが、娘がマリーナの墓前に近づくと悪霊は去った。


タルススのペラギア
シチリア王のファラリスは、彫刻家のペラリウスにアポロ神への奉納品として、精巧な雄牛をつくらせた。すると、ペラリウスは拷問装置の付いた牛を製作した。タルススのペラギアは、ディオクレティアヌス帝によって焼かれた287人のうちの一人だったと言われる。

マーガレット・オブ・スコットランド
サクソン人王の血を引き、クソン好みのマルカム3世と共に封建制度を押し進めた。

立教女学院
立教女学院の英語名は、11世紀のスコットランド王妃に由来。マーガレット王妃は、病人や寡婦など弱者の援助に献身して人々に慕われ、人々から厚く尊敬を受け、聖人の一人となった。聖マーガレットは立教女学院の目指す女性像そのもの。

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上の十字架が米(シュメール語でディンギル、天神アン)に見えてしまった。


セント・マーガレット教会堂
スコットランド・エディンバラ城内で最も古い建物に、セント・マーガレット教会堂があり、スコットランド王妃聖マーガレットが寄進したと言われてきたが、最近の調査で、マーガレットの四男のデイヴィッド1世(1124年即位)が12世紀に建てたらしい。 スコットランドやアイルランドのケルトの影響を受け、典型的なノルマン風の建物らしい。
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どうも「海」な感じ。竜は川や海を制するみたいな意味だろうか…。
マリーナは、スペイン語・ポルトガル語・イタリア語で「海に関するもの」の意味。海人→アムル人?
アモン・ラー、アーメンなど…。ウトゥの太陽を掲げ、海を渡る。
スコットランドのブルーの国旗。

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前にモロッコで、ベルベルのお兄さんが「僕たちは高貴な民、アマジクなんだよ」と言っていましたが、アマジクが海人(あまじん)としか思えなかった…。



虫除けの藍染の服を着る、砂漠の中のトゥアレグ族、青の民。

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虫除け効果のある青い町。



飯豊青皇女の青はこの青だろうか…。マリア(マリーナ)の青い衣。



染物の初めはフェニキア人の「ツロの紫」?

先日、映画のDUNEを見て、ブルーの瞳に砂漠の青の民を思い出しました。

インドネシアの東南スラウェシ州、ブトゥン島には、青い瞳を持つの先住民部族がいるそうです。

ジャワは縄。縄文人。グヌン・パダン遺跡。
ニギハヤヒ(物部)のキープ(ケチュア語で結び目)は、海の民が使う結縄(けつじょう)文字。
アヒル草文字・タネコ草文字・阿波文字。
草は日下のクサ。草彅の剣(天村雲剣)、日下部…。


# by cookiecount2 | 2024-03-26 12:55 | 歴史考察 | Comments(0)

出雲口伝から読み解く誉津別命の謎 3(当麻の蹴速)

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垂仁天皇の皇子の品津別の皇子は七歳になっても口をきくことができず、多久の女神の天甕津媛命は「自分をよく祭れば皇子はよく物を言い」と予言した。品津別の皇子は、母の兄の狭穂彦王が反乱を起こした時、母の狭穂姫命が炎の中で産み落とした子。当麻の蹴速と思われる力士が炎の中から救い出した。

その皇子は、尾張の相津の木で作った二俣小舟に乗せられて遊んだりしているが、八拳鬚心前になるまで物を言うことが出来ずとあり、これは出雲の大神の祟りと云うことが判り、大神の宮を拝むために出雲へおもむき、物が言えるようになった。皇子は肥長比売と一宿婚い、比売が蛇体だったのでびっくりして山へ逃げた。

前回は、上の品津別の皇子(誉津別命)の伝承を、出雲口伝を元に、
●日向から来た11代垂仁天皇(物部イクメ大王)の物部と豊王国(中臣)の連合軍が、奈良の出雲系の磯城王朝を制圧したため、垂仁天皇と出雲族の狭穂姫命との子、品津別の皇子が、出雲の神の呪いで言葉を話せなくなったのでは?
●品津別の皇子が遊んだ「尾張の相津の木で作った二俣小舟(天竜杉で作った舟)」というのは、伊勢を制圧された出雲族の伊勢津彦が天竜川を昇って、御名方登美命(建御名方命)が信濃に作った第二出雲王朝に向かった話を重ねているのでは?
出雲口伝から読み解く誉津別命の謎 1(天竜川との関係)

●自分を祀ると品津別の皇子話せるようになり、長寿になると言った「多久の女神の天甕津媛命」は、出雲族の栲(梶の木等の繊維で織った布)の女神、天御梶日女命(味鋤高彦根命の妃)で、味鋤高彦根命は天津甕星(天背男命)では?
出雲口伝から読み解く誉津別命の謎 2(多久の女神の天甕津媛命)
と考えてみました。

あと、気になってるのは、
・皇子を炎の中から救い出した「当麻の蹴速」
・「八拳鬚心前」の意味
・皇子が一宿婚いした「肥長比売」
で、
「八拳鬚心前」は→素盞嗚尊・味鋤高彦根命と同じ→出雲族
「肥長比売」は→飯長姫→磐長姫→鬼は長寿
ということかな。



では、「当麻の蹴速」とは?

神話では、垂仁天皇の命により、当麻蹴速(彦坐王の孫)は、野見宿禰(天穂日命の14世の子孫、飯入根ー鵜濡渟ー野見宿禰)と相撲(角力)対決し、殺されたと言います。

野見宿禰は蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられ、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられたそうな。
(長嶋修さんによると、ハジというのはペルシャの意味らしい)
※ハッジはイスラム教徒で、聖地メッカへの巡礼(ハッジ Hajj)を終えた人々への尊称。ペルシャ語・アラビア語・ボスニア語・トルコ語

出雲神話では、11代垂仁天皇(物部イクメ大王)は母の豊玉姫(豊王国から別れたのが、任那の中臣の金官加羅国や狗邪国)とともに、日向から紀伊国→奈良へと侵攻し、出雲族の磯城王朝を倒して、新しい王朝を作っていったらしい。

そして、相撲というと、ヤコブ(イスラエル)、タケミナカタとタケミカズチ。巨人族。ティターン族(タイタン)でもある。
ティターノマキアー(ゼウス率いるオリンポスの神々とクロノス率いるティターン族との戦い)→牧野(ぼくや)の戦い(前11世紀頃周の武王が殷を滅ぼしたときの戦い)。牧野は河南省汲県の近く。

ホツマ辞典では、當麻の蹶速はタエマクエハヤとされています。
速の字は隼人?クエという魚もいたかも。生き物の名前を付けるのは、出雲族風。

當麻の蹶速は、彦坐王の子の小俣王の皇子だったとか。当麻国造だったらしい。
二俣王に続き、小俣王。俣は賀茂氏。

當麻の蹶速(タエマクエハヤ)
地金を延ばして、角を裂き、鉄の弓を扱う程の大力の持ち主。 

※二上山の霊峰の下に生を享けられた當麻蹶速は、天神族の小股王の皇胤で、身分の高い品格のある大人物で、日本書紀での力のみ恃む卑劣な人ではなかった。垂仁帝の時代、野見の宿祢との日本国技として、初の天覧相撲で敗者となったが、氏族間の斗争の犠牲になり、路傍の石として顧みられなかった事は、全く不運である。二上登山道中、当麻山口神社石の鳥居北側付近は、當麻蹶速の屋敷跡と云われているが、当塚は相撲開祖の蹶速公の墓として、毎年追善法要を執行している。

※『古事記』小俣王(おまたのみこ)は彦坐王の御子で、山代の荏名津比売(苅幡戸弁・苅羽田戸弁・綺戸邊)を母とする。

綺:文様が斜めになった織物→相楽郡山城町綺田(山城国相楽郡蟹幡郷)蟹満寺・綺原神社(綺原坐健伊那太比賣・かんばらにますたけいなだひめ神社
※綺田(カバタ)→紙織(カムハタ)・神織(カムハタ)→綺氏(カバ)一族→蒲氏?

●9代開化天皇(妻:姥津媛・大宜津比売?)ー彦坐王ー小俣王ー當麻の蹶速
※小俣王の兄弟:狭穂彦、狭穂姫、丹波道主命、大海宿禰/水之穂真若王/みずのほまわかのみこと、美濃の神骨/神大根王/八瓜入日子王

二上山の麓というのが、アクエンアテン(クナト王)の民、出雲族のアケトアテン信仰を思わせます。
2つのピラミッドの間から登る朝日をとても重要視したそうな。
股の間から子供(太陽)が生まれる事の象徴だったのか?
お尻に似た桃を重要視したのもそういうことかと。
関東の男体山と女体山は、アケトアテン信仰の名残?

天稚彦の葬儀の時、下照姫が兄の味耜高彦根神の事を歌った歌もアケトアテンのこと。
亡くなった天稚彦は椎根津彦命(火進命=御穂須須美命?・美保神社の本当の御祭神)の民という事でしょうか?

當麻は當麻物部の拠点。
二上神社の祭神に豊布津神(武甕槌神とも言われる)。元々は物部の神。
蟹守宮司の祭神の天忍人命は、掃守連の遠祖で、箒を作り産屋に近づく蟹を掃い、現在では産婆の神。(箒→伯耆国→ハハキ→竜神木→アラハバキ→遮光器土偶)
天忍人命は、天村雲命の日向での御子神。

火進命:スセリ(シラヒゲ草)によってカニを治し、十四鈴という長寿を得た。
カニ
兼・合わせ・まじり・濁・寄生。
カニ(兼)の曲:寄生虫による異常/病。寄生虫症。
カニモリ:産育の始祖。その職号を蟹守と言う。カニは香泥、即ち胎児の垢。後世、掃部 、加守、狩森、鴨田等の名あるはすべて蟹守の転訛。産科育児等にたづさわる人は祖神の居ます加守の地を第二の故郷として、しばし帰参去るべし。
葛木倭文坐天羽雷命神社:相殿/蟹守神社(奈良県北葛城郡当麻町大字加守)

葛木二上神社(奈良県葛城市染野)
豊布都霊(とよふつのみたま)神と大国魂(おおくにたま)神を祀る。豊布都霊神が石上神宮に、大国魂神が大和神社に勧請されたという伝承がある。豊布都霊神については布都御魂の名が有名だが、何故「豊」が名前に付くのかは不明。また、武雷神と同神とされる。大国魂神は国津神の大将軍とされる。
『神社要録』には「武甕槌命、大国主命」、『神祇志』には「紀豊布都霊神、大国神」と記載。
東側には大津皇子の墓。山麓の葛木倭文坐天羽雷命神社(倭文神社)の相殿神として大国魂神。

元々は二上山の2つの山頂・雄山と雌山にそれぞれ男神・女神が祀られていたものとみられる。
二上山には讃岐岩(サヌカイト)の層があり、二上山の雌岳に神蛇大王(竜王)を祭る社(現、境内稲荷神社末社の竜王社)もあった。
干ばつの年には「嶽の神様 幟(のぼり)がお好き、幟持てこい、雨降らせ」と唱和して雨乞いの登山が行われた。

当麻国を奪った野見宿禰が物部か?(武内一忠さん説)

葛木二上神社の御祭神が武甕槌命とされるのも、安倍王国(長髄彦=大彦)の民が常陸に祀った
武甕槌命=天甕星命(天背男命・天香香背男・味鋤高彦根命)+武羽槌命(天羽槌雄神)
という事を知っていたら、納得できます。
後に、中臣軍に奪われました。

フツヌシ(勾玉→剣)が武甕槌命とされたり、武甕槌命が中臣に奪われたり(出雲口伝)、「紀豊布都霊神」の紀や豊の字は、紀の国や豊王国が関係してるのかと思われる。高倉下+中臣+フツの民?ややこしい。
豊王国→金官加羅(中臣)

当麻国って投馬国(日向の都万国)?
投馬国の官を弥弥(みみ)、副官を弥弥那利(みみなり)と言ったそうな。



小俣王(當麻の蹶速の父)のお母さんは、山代の荏名津比売という人だったらしい。
山代県主は天目一命(天麻比止都命・天御影命)の一族で、天目一命は、阿多根命・阿多振命(賀茂県主)の曽祖父。
さらに遡ると、住吉の子の速秋津姫の民らしい。
後に、筑紫国・伊勢国の忌部氏となった人たち。

●神皇産霊尊(白山神)ー?ー天目一命ー?ー?ー阿多根命
●住吉ー速秋津姫ー天津彦根命(タタキネ)ー天御影命(天目一命)
天目一命:アマテルの言葉に従い、百日の物忌の後、右目ひとつで八振の八重垣の剣を造り奉った金錬人。

荏名津比売(苅幡戸弁・山代県主長溝の子)の子
・大俣王:子供の曙立王(アケタツノミコ)/品遅部君(ホムヂベノキミ)・伊勢の佐那造(サナノミヤツコ)の祖先
・小俣王:当麻勾君(タギマノマガリノキミ)の祖先 ※勾:曲がる・鍵→出雲族の宝、勾玉
・志夫美宿禰王(スブミノスクネ王):佐々君(ササノキミ)の祖先
日子坐王第一妃 山代之荏名津比賣命と名族 山代縣主家の系譜

※山代県主:神武朝で天目一命(天御陰命・天津麻羅?)。速秋津姫の子の子の天津彦根命の子。鍛冶神で、天之御影神を祖とする息長氏と同祖。
 筑紫国・伊勢国の忌部氏、山城国菅田首、山城国山背忌寸、大和国葦田首、山代直(山背国造)の祖。
 道主日女命(饒速日の妻の天道日女命・アメミチヒメと似てる)の夫。阿多根命・阿多振命(賀茂県主)の曽祖父。
※阿多根命:神武の即位式では、月の使い(月の臣)として、ヤタ鏡をタネコ(鏡臣)に渡す役を務める。

ん?天穂日命の系図の阿多根命(阿多振命・賀茂県主)って、『タマカワの尊宝記』事件の出雲振根(阿多命・出雲タケル)のことかも?

奈良県北葛城郡当麻町当麻の、当麻山口神社の境内摂社、当麻都比古神社には、彦坐皇子と麻呂子皇子が祀られ、麻呂子皇子とは?と調べると、聖徳太子の異母弟の当麻皇子とか。

当麻皇子は征新羅将軍に任じられたりもする武闘派。

大江山(三上山)の三鬼(栄胡・足軽・土熊)を退治したのだそうで、大江山の鬼退治の話は、源頼光が退治した酒呑童子が有名だけど、当麻皇子の鬼退治はその400年前のことらしい。

当麻皇子が大江山へと向かう途中、額に鏡を付けた白い犬が現れて鏡を献上した。
犬に導かれながら鬼たちの巣窟にたどり着いた。
栄胡、足軽の二鬼はすぐに退治できたが、土熊には逃げられ、犬から献上され鏡を松の木の枝に掛けたら、土熊の姿が鏡にクッキリ。
土熊を退治することができた。
この宝鏡は、大江山の麓にある大虫神社(億計王と弘計王が即位前に潜伏していた)に納められたが、火災で消失してしまった。
(億計王=24代仁賢天皇、弘計王=23代顕宗天皇、参考:飯豊青皇女、志波は柴?と富士山
鬼は妖術を自在に操って空を飛び、海をも歩き、雲を起こして雨をも降らせることができた。
一説によれば、製鉄の民・タタラ師と関係があるとか。
大江山は金属鉱脈の豊富な鉱山で、この辺りは古くから製鉄が盛んだった。
聖徳太子の弟・当麻皇子が退治した大江山の三鬼は、本当に鬼だったのだろうか?

さらに、当麻皇子より2〜3世紀遡った崇神天皇(3〜4世紀)の時代にも、日子坐王がまつろわぬ陸耳御笠(くがのみみかさ/玖賀耳之御笠)を退治したとの逸話が伝えられているらしい。
ミとかミミは南方系の海人族。

・古事記、崇神天皇の条:四道将軍の一人として、日子坐王(ひこいますのきみ)を「旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」
・丹後国風土記残缺:由良川の下流に陸耳御笠と言う土蜘蛛が暴れていたため、崇神天皇が弟の日子坐王を派遣してこれを討ったところ、陸耳御笠は與佐大山(大江山)に逃れた。

くがのみみかさ→三笠
當麻の蹶速→タエマクエハヤ→多江麻久江速。気になっていたのは、大江山の「江」
当麻→タギマ→但馬

こないだ調べてたのは、多久(栲)の女神、天甕津姫(天御梶日女命)。
出雲族の銅鐸のタク、託宣のタク。

大江山の鬼伝説はこういう歴史だったのか!

本当に鬼はいたのか?と言われたら、いたような気がします。争いを好まない巨人族だったらしい。出雲族のような…。

【咲の経験則。記憶】歴史には残らない鬼族が語った真実 人間が起こした悲劇(YouTube)


出雲口伝では、
力をつけたヒボコ族が、天孫族と手を結び、物部を将として、吉備から攻めてきた。天孫族はクナト大社(熊野大社)に安置する勾玉を奪っていった。我々は祭祀を停止し、人々は働かず、各地で反乱が起きた。困った天孫族はヒボコ族を動かし、祭祀を復活するよう頼みにきたが、無視したので、ホヒ族が代行した。天孫族は伊勢にも攻め込み、王の伊勢津彦は御名方登美命の信濃へ逃げた。
とある。

それが、当麻国が蹴速から野見宿禰に渡された理由?

あと、
松尾大社の摂社の月読神社は、23代顕宗天皇3年(推定487年)、阿閇国臣事代が任那へ行く途中の壱岐でご信託を受けたことに始まり、壱岐から月神の末裔の押見宿禰を呼び寄せ、山背国葛野の歌荒樔田(うたあらすだ)に祀らせた。
押見宿禰→壱岐氏→ト部氏(亀ト)→松室氏
松尾大社と月読命の民

この押見宿禰って野見宿禰と名前が似てるけど、関係あったりするんだろうか?

神話は多重重複構造となっているようなので、年代などは、あまり当てにならないらしい…。


「当麻の蹴速」について調べてみたら、裏に隠れていたのは、大江山の鬼伝説。

誉津別命伝承の気になるワードを探ったら、追いやられた出雲族の沢山の悲しい歴史が隠されていたのでした。


# by cookiecount2 | 2024-03-24 10:04 | 歴史考察 | Comments(0)

出雲口伝から読み解く誉津別命の謎 2(多久の女神の天甕津媛命)

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垂仁天皇の皇子の品津別の皇子は七歳になっても口をきくことができず、多久の女神の天甕津媛命は「自分をよく祭れば皇子はよく物を言い」と予言した。品津別の皇子は、母の兄の狭穂彦王が反乱を起こした時、母の狭穂姫命が炎の中で産み落とした子。当麻の蹴速と思われる力士が炎の中から救い出した。

その皇子は、尾張の相津の木で作った二俣小舟に乗せられて遊んだりしているが、八拳鬚心前になるまで物を言うことが出来ずとあり、これは出雲の大神の祟りと云うことが判り、大神の宮を拝むために出雲へおもむき、物が言えるようになった。皇子は肥長比売と一宿婚い、比売が蛇体だったのでびっくりして山へ逃げた。

前回は、上の品津別の皇子の伝承を、出雲口伝を元に、
日向から来た11代垂仁天皇(物部イクメ大王)の物部と豊王国(中臣)の連合軍が、奈良の出雲系の磯城王朝を制圧したため、垂仁天皇と出雲族の狭穂姫命との子、品津別の皇子が、出雲の神の呪いで言葉を話せなくなったのでは?
品津別の皇子が遊んだ「尾張の相津の木で作った二俣小舟(天竜杉で作った舟)」というのは、伊勢を制圧された出雲族の伊勢津彦が天竜川を昇って、御名方登美命(建御名方命)が信濃に作った第二出雲王朝に向かった話を重ねているのでは?
と考えてみました。

出雲口伝から読み解く誉津別命の謎 1(天竜川との関係)

上の品津別の皇子の伝承をよくよく読むと、まだまだ気になる部分があります。
・自分を祀れば良くなると言った「多久の女神の天甕津媛命」
・皇子を炎の中から救い出した「当麻の蹴速」
・「八拳鬚心前」の意味
・皇子が一宿婚いした「肥長比売」



まず、「多久の女神の天甕津媛命」とは?

多久とは、栲幡千千姫命の栲。
栲は「たえ」で、梶ノ木等の繊維で織った布のこと。

佐賀に多久市があって、多久物語として西ノ原大明神の伝説があります。
多久市多久町の西ノ原大明神には、許されぬ恋に殉じた多久七代藩主多久茂堯の長女林姫を供養し、安産の神様として知られる。
41204-0 佐賀県多久市(多久)

多久氏とは、鍋島に繋がる家系らしく、鍋島とは?と調べると、
●宇多天皇-敦実親王-(10代略)-清綱-清定-清経-経定-経秀-経直-清直-清久-清房-直茂-勝茂…
※山城の国長岡に住み長岡を家名としていた。
鍋島家の由来

元は、山城の国長岡に住んでいた人たちらしい。
山城は、山背(やまうしろ)とか、山代とも書きます。
そして、長岡(ナーガの丘)…。

1.葛城の古代

上のサイトをもう一回じっくり読んでみると、
神武紀、椎根津彦を倭国造とした。また剣根という者を葛城国造とした。
●高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-(土神)剣根命-夜麻都俾命-久多美命(葛城直祖)
※土神=土蜘蛛。土=ヒキ(朝鮮語)→日置

久多美命(葛城直祖) という人がいる。
調べてるのは多久だけど、漢字を入れ替えるのはよくあること。
ビンゴかも。これが多久氏の祖?てことは剣根命が祖?

剣根命(蔓城主) 
カツテ神の孫。
旧事:天忍男命は、葛木の剣根命の娘の賀奈良知姫(かならちひめ)を妻とし二男一女を生む。即ち尾張連の祖の瀛津世襲命、建額赤命(たけぬかあかのみこと)、世襲足姫命。瀛津世襲命または葛木彦命(かつらぎひこのみこと)は、池心朝(孝昭天皇)の御世に大連と成った。
●ソサノヲー葛城一言主ーカツテー?ーツルギネ
勝手尊

カダキ(葛城)ヤスヒコ。受鬘命(うけのり)。鬘=カツラ。葛城国を受けたの意味?
天津赤星の兄。
天津赤星
櫛玉火明命の五伴の司の一人。斎奇船の水手。
旧事:筑紫弦田物部(つくしつるたのもののべ)・爲奈部(いなべ・木工技術)等の先祖
・東出雲人(向家・富家)は摂津国三島の協力を受け、葛城山の御所市辺りを開拓し、事代主を祀る一言主神社や鴨都波神社を建てた。
・西出雲人(神門臣家)は南葛城方面を開拓し、アジスキタカヒコネを祀る高鴨神社や大年神や高照姫を祀る御年神社を建てた。

一言主を祀っていたのは富家(東出雲人)。
気になっていた、天津赤星の名前もある。

出雲国風土記の楯縫郷の條には
阿遅須枳高日子命の妃の天御梶日女命が、多久の村までおいでになり、多伎都比古命を産み給ふた。
とあり、
「梶」は木綿(ゆふ)の原料である楮(古語拾遺)。妃神は織物の神。
多久の神は葛城では、石園坐多久虫玉神社二座。

タギツ彦って…。タギツ姫は江ノ島姫。
出雲口伝では、富長髄彦(大彦)の王家を守るのは三島で、三島が祀るのはオオヤマヅミ。
ここで繋がるのか!橘山積みとタギツ姫の結婚。
最近、オオヤマヅミをずっと調べてました。(参考:過去記事)

尾張風土記逸文には
「私は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女というのだ。私はまだ祭ってくれる祝をもっていない。もし私のために祭る人を宛てがってくれるならば、皇子はよく物を言い、また御寿命も長くなるようになる。」といった。帝は、この神が誰で、どこにいるのかを探しだすべき人を占わせると、日置部らの祖建岡君がその占いに合った。そこで神をたずねさせた。その時建岡君は美濃の国の花鹿の山に到り、榊の枝を折とって縵(ゆるやか・無地の絹)に造り、祈誓して「私のこの縵が落ちるところに必ずこの神がいらっしゃるだろう」といったところが、縵はとび去ってここに落ちた。 そこに祀られた神が天甕津媛命。→阿豆良神社
とあるらしい。

天甕津媛命は天津甕星(香香背男)という神と名前がよく似ていて、同族では?と考えます。
香香背男は天背男命だとも思われ、漢字から山背国から来た男では?と考えました。
尾張の中島辺りにいたらしい。

阿波系図から「八倉姫=大倉姫(美濃の姫)」では?という考察も交えながら、たどり着いたのが、
天津甕星(香香背男)=天背男命=味鋤高彦根神


そして、現在はさらに進化して、次のように考えています。
天背男命=味鋤高彦根命=日高彦(日立)=阿多根命(賀茂県主)
武羽槌命(天羽槌雄神)=賀茂別雷命
武甕槌命=天甕星命(天背男命・天香香背男・味鋤高彦根命)+武羽槌命(天羽槌雄神)
賀茂建角身命(賀茂別雷命の父)=角凝魂命

常陸の神話では、香香背男を説得して退かせたのは、孫の武羽槌命。
サカ族の仏の御霊(由布津主)の影響か?
武羽槌命は織物の倭文部の神であり、天甕津媛命は織物と関係があり、星の神でもある。→七夕

中臣の系図も参考にしてますが、系図的にはおおよそ合っているのでは?と考えていて、服部氏の系図から、どこで中臣勢力が介入してきたのかも解るのでは?と思います。

出雲口伝では、景行天皇の御子、大碓命に追われた駿河(すがる→スバルっぽい)の安倍王家(長髄彦の王国)は、常陸国に移り、鹿島神宮を建て、龍神の化身の雷神(武甕槌神)をを祀ったが、中臣氏の軍勢に奪われたと伝えられています。

天津甕星=味鋤高彦根命
としたら、やっぱり
多久の女神の天甕津媛命=天御梶日女命
だよねぇ。


倭文部と関係ありそうな「当麻の蹴速」については、結構深そうなので、また今度!


# by cookiecount2 | 2024-03-23 12:50 | 歴史考察 | Comments(0)

出雲口伝から読み解く誉津別命の謎 1(天竜川との関係)

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天竜の椎ヶ脇神社。鹿島の花火が有名


前に、誉津別命の謎について書きました。


垂仁天皇の皇子の品津別の皇子は七歳になっても口をきくことができず、多久の女神の天甕津媛命は「自分をよく祭れば皇子はよく物を言い」と予言した。品津別の皇子は、母の兄の狭穂彦王が反乱を起こした時、母の狭穂姫命が炎の中で産み落とした子。当麻の蹴速と思われる力士が炎の中から救い出した。

その皇子は、尾張の相津の木で作った二俣小舟に乗せられて遊んだりしているが、八拳鬚心前になるまで物を言うことが出来ずとあり、これは出雲の大神の祟りと云うことが判り、大神の宮を拝むために出雲へおもむき、物が言えるようになった。皇子は肥長比売と一宿婚い、比売が蛇体だったのでびっくりして山へ逃げた。

という話から「尾張の相津の木で作った二俣小舟」の「尾張の相津」は、後の遠江国(静岡西部)にある天竜川の相津マリーナ辺りのことで、材木で有名な二俣町の杉で作った船のことだったのでは?と考えました。

その御子を連れて遊ばせられる様子は、尾張の相津(あいず)にある二俣杉を二股の小舟に作り運び上げ、倭の市師池や軽池に浮かせ、その御子を連れて遊ばせられました。

応神天皇の子に若野毛二俣王がいて、二俣王は継体天皇の先祖でもあり、二俣王の父は誉田別命(応神天皇)ではなく、垂仁天皇の子の誉津別命とする説もあるらしい。

出雲口伝では、継体天皇は出雲族だとのことです。
品津別の皇子も「出雲の大神の祟り」という記述から、母親が出雲族なのだろうと推測できます。

出雲口伝では、
徐福が渡来し、初代神武天皇(天村雲命)は宗像と出雲の血が入った徐福の孫とのことで、2代目までは海部王朝、3代目から出雲系の血が濃くなり磯城王朝。

1度目の徐福渡来時は「徐福=彦火明命」で、2度目は「徐福=饒速日」、その時の子供が彦火火出見で物部王国となり、紀伊国熊野に上陸しヤマトに侵入すると、宗教戦争が起きて、物部勢力を恐れたフトニ大王(7代孝霊天皇)は出雲を裏切った。

筑紫の物部イニエ大王(10代崇神天皇)が日向で都を作り、豊王国(豊日国、後の狗邪国、金官加羅)と連合し、宇佐ノ宮の姫巫女、豊玉姫を后に迎えた。

豊玉姫が磯城王朝を倒そうと計画をし、3世紀後半から4世紀前半に物部イクメ大王(11代垂仁天皇)が奈良地方で新王朝を開いた。

時が経ち、天孫族の間でまた内乱が起き、中立な出雲族に天皇となるよう要請が来た。で、立ち上がったのが継体天皇。
507年の即位式には、出雲神族の三輪一族と加茂一族が大きな力を発揮した。
継体天皇・安閑天皇・宣化天皇と出雲神族の天皇が続いた。
のだそう。

品津別の皇子が遊んだという「尾張の相津の木で作った二俣小舟」は、出雲タケル(出雲振根・阿多命)の子の伊勢の王、伊勢津彦が、天竜川を昇って信濃へ去ったという伝説も含んでいるのかも。

伊勢津彦は、出雲族の御名方登美命が信濃に作った第二出雲王朝に向かったようです。

出雲タケル(出雲振根・阿多命)が奪われたタマカワの尊宝記というのは、天孫族が奪っていったクナト大社(熊野大社)に安置された勾玉?(とすると、出雲杵築宮というのは、熊野?)

品津別の皇子は、11代垂仁天皇と狭穂姫命の子で、まさに磯城王朝を倒し、奈良で新王朝を開いた物部イクメ大王(11代垂仁天皇)の出雲口伝とも重なります。

「小舟を倭の市師池や軽池に浮かせ」というのは、海拓榴市(つばいち)や軽市(かるのいち)などの市は、争いを好まず、貿易での交流を大切にした出雲族が開いたものを示しているのかも…。

日本と世界6(出雲王国)
の系図を見て改めて気づいたのですが、宗像(マガタ国)も出雲族なのですね。

出雲口伝では、「美保神社の本当の御祭神はミホススミ命」。

「御穂須須美命=火進命(海幸彦)」と考えている私は、海幸山幸のいざこざも、出雲と物部(彦火火出見尊)のことだったのかなぁと思うのでした。

火進命
末裔:隼人・吾田君小椅・隼人阿多君・大角(大隅)隼人。
別名:白髭尊・スセリ・サクラギ
子守尊(ミホヒコ)のスセリ姫を娶り、珍彦(椎根津彦・槁根津日子)を生む。
飛鳥の地で香具山の埴を採って来た功により大和国造(倭国造)となる。

火進命は阿多隼人の祖。出雲族の出雲タケルの別名が、阿多命というのも納得です。

天竜川沿いの椎ヶ脇神社の「椎」は、火進命の子供の椎根津彦の「椎」でもあります。




あと、気になっているのは、名変えをしたホンダワケ(15代応神天皇)。
応神天皇の別名ホンダワケは、品津別の皇子から取ったと思うのですが、応神天皇が出雲族かというと、そうではない。

出雲口伝の神功皇后と葛城襲津彦の子供が亡くなったので、「宇佐家の子供と取り替えた」という部分が「名変え」と関係あるのでしょうか?

「品」の字も気になってます。

また今度、考えてみようと思います。


# by cookiecount2 | 2024-03-22 20:12 | 歴史考察 | Comments(0)

出雲口伝から考える秦王国(徐福の国)

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出雲口伝の復習メモ。
一番気になる、忌部・物部・出雲・中臣の関係や、天日鷲命辺りの考察用。
今回も、えりえなさんの動画から。

●【倭国と秦王国】7世紀以前の大和朝廷はフィクション〜古書から日本の歴史を学ぶ〜



任那はニムナで、ニムが主要、ナが土地。
加羅諸国の主要な土地→本国。

煬帝(604-618)の時代、遣隋使の小野妹子と一緒に隋から和国に渡来した官吏、裴世清は、筑紫から東に行くと秦王国に着くと書いた。
7世紀前半は、聖徳太子が十七条憲法や冠位十二階を制定したりしていた推古天皇の時代。
秦王国の人は華夏と同じ夷州(殷人)で、箕子朝鮮は殷の後進で、殷人で夷族とも書かれ、同族。
隋書には、倭国について阿蘇山で祭祀を行うと書かれ、煬帝の父の文帝の時代(600年)には天足彦の妻はキミで、太子の名はリカミタフリとある。
607年に隋に送った「日出ずる処の天子…」という国書は、大和朝廷ではなく、アマを名乗る倭王。

出雲口伝では
紀元前3世紀末に秦国から徐福の集団が石見国の五十猛という土地に上陸した。
徐福が連れてきた子供たちが出雲の主王と副王を洞窟に幽閉して殺害、両王家(向家と神門臣家)の分家は、これを忌まわしいとして、約半数を奈良地方のヤマトへ移住し、サイノカミを奉じる。

東出雲人(向家)は摂津国三島の協力を受け、葛城山の御所市辺りを開拓し、事代主を祀る一言主神社や鴨都波神社を建てた。
西出雲人(神門臣家)は南葛城方面を開拓し、アジスキタカヒコネを祀る高鴨神社や大年神や高照姫を祀る御年神社を建てた。
後に村雲命(神武天皇)とがヤマトに進出し、事代主子孫の登美家(向家・東出雲人)と協力して海部王朝を作った。
出雲口伝から考える秦王国(徐福の国)_b0411242_08574187.jpg


海部王朝は出雲系の血が濃くなり、磯城王朝に変わった。
富家の事代主御子たちが、サイノカミを奉じ、ヤマトや伊勢に移住したことを記念し、出雲井神社が建てられた。

徐福の2度目の渡来は饒速日で、筑後国の吉野ヶ里に住み、物部となった。
物部の徐福の次男家系が紀伊国熊野に上陸し、ヤマトに侵入すると宗教戦争が起き、出雲勢力は銅鐸を隠した。

物部勢力を恐れたフトニ大王(7代孝霊天皇)は、吉備国に逃れたが、息子の吉備津彦が出雲を攻め、日野川を北上し、出雲軍を攻めて出雲族を裏切った。
東出雲人は傷つき、出雲の「銅剣の交差紋」は「大根の交差紋」に変えた。

筑紫平野の物部イニエ大王(10代崇神天皇)が都万国(投馬国)と呼ばれていた日向に向かい、都を作った。
物部イニエ大王(10代崇神天皇)は巫女を求めて豊王国(豊日国、後の狗邪国、金官加羅)と連合し、宇佐ノ宮の姫巫女、豊玉姫を后に迎えた。

物部イニエ大王(10代崇神天皇)が没し、妻の豊玉姫が磯城王朝を倒そうと計画をし、3世紀後半から4世紀前半に物部イクメ大王(11代垂仁天皇)が奈良地方で新王朝を開いた。
イクメ大王(11代垂仁天皇)とヒバス姫が亡くなった時、方墳先進国だった出雲技術者に古墳を作るよう要請が来た。

徐福→物部=秦王国

宮下文書は徐福が7代に渡って編纂した。
種本の一つは寒川神社に伝えられ、7代孝霊天皇が編纂し、8代孝元天皇が編集し、天智10年(671年)白村江の戦いから8年後、近江宮(天智天皇が即位した場所)から来た中臣藤原物部麻呂(=藤原不比等とも言われている)によって改定された。


# by cookiecount2 | 2024-03-22 09:01 | 歴史考察 | Comments(0)